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国府宮はだか祭
大鏡餅奉納について

明治初期から五、六俵前後の鏡餅が有志によって神社に供えられておりました。
その後、一九四〇年(昭和一五年)中島郡平和町法立奉賛会が四十三俵を奉納して以来「大鏡餅」として呼ばれるようになり、以後中島郡(当時)の町村が交代で奉納する慣例となり、同時に大きさを競う気風ができてきまた。
大鏡餅の奉納地については、一九五五年まではほとんどが旧中島郡に属していた現在の稲沢市と一宮市の地域に偏っていました。その頃、中島郡外の町村からも奉納希望の声が高まったため、その年以降は中島郡という枠が外され、尾張地方のかなり広範囲の地域が大鏡餅奉納を行うこととなっていきました。
そのため,尾張地方では儺追神事(国府宮はだか祭)の存在が徐々に知れ渡ることになり、奉納地では地元の名誉のために奉納される鏡餅の形状は徐々に大きくなっていきました。
「大鏡餅奉納」は、以前は神事の当日に行われておりましたが,一九六〇年以降は奉納をより安全に行うため,その年以降は前日に行われるようになりました。
また、神事ではなく祭に関わる人々にも一定の変化が生まれてきました。
昭和の時代までは、儺追神事は男性の祭であるため、女性はあまり関わってはいけないとされてきました。
特に、昭和中期頃までは儺追神事の当日には女性は家から出てはいけないという風潮さえありました。
しかし、現在は警備も厳しくなり、祭の様子を一般客として女性や子どもたちも見物に来ることは、歓迎されるようになってきました。
このように時代とともに変化してきた儺追神事ですが、一九六〇年以降にみられた都市開発・人口流入・市町村合併などが、「大鏡餅奉納」や「儺追神事」に及ぼす影響はほとんど無く、今もその歴史を受け継いでおります。